豊後街道は、熊本城から大分鶴崎を結ぶ肥後藩の参勤交代道として整備された歴史の道で、清正公道や鶴崎路とも呼ばれました。
慶長年間、当時肥後藩主だった加藤清正が瀬戸内海への海路までの道を望み、天草郡の代わりに豊後三郡を得て街道の整備をしました。豊後の久住、野津原、鶴崎が肥後藩領の飛び地となったため、鶴崎までは他藩の領地を通らずにすむという利点があったのです。肥後藩主が細川氏に移ってからも引き続き利用されました。
しかし、阿蘇から久住にかけての道は起伏が激しく、火山灰土であるため雨のたびに悪路となりました。そのため、二重峠の区間をはじめとして石畳が整備されました。
街道沿いには、一里ごとの目安として里木や里塚が整備され、宿泊や休憩所として御茶屋も置かれました。阿蘇市では、的石御茶屋跡が当時の様子を残す史跡として残っており、その近くには、藩主が勧進した隼鷹天満宮もあります。
「岩坂村つくり」という刻字が見える石
区分:国指定史跡
所在地:阿蘇市車帰、的石、狩尾、一の宮町坂梨
指定年月日:平成25年7月10日